海老原一郎によるエントランスホールのスケッチ(1988年)

日本を代表するモダニズムの建築家

1970年代、大日本インキ化学工業(現 DIC株式会社)の第二代社長・川村勝巳は、美術館建設の構想を持ち始めます。候補として世界的に著名な建築家の名も挙がる中で、設計を託されたのは日本を代表するモダニズムの建築家、海老原一郎でした。

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海老原一郎

海老原は1905年東京本所生まれ。東京藝術大学の前身、東京美術学校を卒業後、建築家としてのキャリアをスタートさせます。折しも1923年の関東大震災を経て、建物の主要建材が木材・レンガ・石などから鉄筋コンクリートへ移行してゆく時期でした。これに伴い、装飾優先の建築様式を離れた機能的で合理的なモダニズム建築が台頭。海老原はそうした流れを牽引するモダニストの一人として頭角を現します。海老原のモダニズムを感じさせる建築には、憲政記念館、大日本インキ(現 DIC)東京工場、日本バイリーン滋賀工場などがあり、中でも憲政記念館は、平屋の打放しコンクリートの設計が高く評価され、後の日本芸術院賞受賞にも結びついた作品です。

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1967年の竣工から45年にわたり愛された日本橋の旧DIC本社ビル。
(2013年、新社屋に建て替えのため取り壊し)

互いを一番の理解者として

海老原と川村は、東京府第三中学校(現 都立両国高等学校)の同級生でした。若い頃から自社のビルや工場を海老原の設計でいくつも普請した川村は、海老原の個性と力を熟知したうえで、未知の挑戦となる美術館建設をともに進めたいと考えたのでしょう。川村の情熱を受け止めた海老原は、美術館建設を自身のライフワークと捉え、時に寝食を忘れるほど熱心に仕事へ打ち込みました。

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美術館外観。池を挟んだ対岸のDIC総合研究所を「知性のシンボル」とし、
美術館を「感性のシンボル」に据えている。

重なる二つの円

プロジェクトが始まり海老原が描いたのは、クラシックな建物の装飾的要素を取り入れた“モダニスト海老原”らしからぬ設計図。絵心があり、実は壁面などの装飾を考えることが大好きだったという海老原は、機能や合理性を超えて、建物全体の印象を包むことができる「装飾」を柔軟に取り入れました。 こうして美術館のために海老原が発案したデザイン・モチーフが、「重なる二つの円」。鑑賞者を迎え入れるエントランスホールの床や天井照明をはじめ、館内の随所で目にすることができます。この「重なる二つの円」は、「作家と鑑賞者の二つの精神の出会い」そして「川村勝巳と海老原一郎の友情」という意味が込められています。

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1988年11月に始まった建設工事のさなか、ふとした怪我をきっかけに病に伏した海老原は、枕元にスケッチブックを置いて美術館の姿を描き続けました。エントランスホールの色鮮やかなステンドグラスが最後のデザインでした。84歳の生涯を閉じたのは1990年5月の美術館オープンから数日後のことでした。完成した美術館をその目で見ることは叶いませんでしたが、長い建築人生の最後に70年来の友と情熱を共有し、夢の美術館を完成させました。装飾的要素を取り入れつつ、鑑賞者と作品のための工夫が凝らされたDIC川村記念美術館は、まさに海老原一郎の代表作と言えるでしょう。